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歴代ベストセラー作品
ここでは現在までの累計発行部数が100万部を超える受賞作を解説する(作品名は単行本タイトル。発行部数は『ダカーポ』2006年7月19日号に基づくもので、『蹴りたい背中』を除いて単行本と文庫との総計。古い時代のものは正確な売り上げデータが残っておらず売り上げに計上されていないものもある)
安部公房 『壁』(第25回・1951年)130万部
「戦後派」の代表的作家の一人安部公房の作品。『壁』は3部からなるが受賞作は第1部にあたる「壁―S・カルマ氏の犯罪」で、名前を失った男の奇譚を描くシュルレアリスム風の前衛的な作品であった。石川利光「春の草」との同時受賞で、こちらは対照的に古風な作品である。選考委員のなかでは川端康成、丹羽文雄、瀧井孝作が強く推し、「退屈」として宇野浩二が反対したが、他の委員が前者に同調するかたちで受賞が決まった。 外貨預金
石原慎太郎 『太陽の季節』(第34回・1956年)102万部
前述したように「太陽族」ipo
という新語とともにブームを巻き起こし、芥川賞の話題性を決定付けた作品である。裕福な家庭で育った若者の無軌道な生活を描いたもので、奔放な性描写が話題となった。選考では最終的に藤枝静男の「痩我慢の説」との対決となり、この2作に対し選考委員の意見が分かれた。SEM
委員のうち舟橋聖一、石川達三がそれぞれ欠点を指摘しつつも「太陽の季節」を終始積極的に支持、佐藤春夫、丹羽文雄、宇野浩二が強く反対し、最終的に瀧井孝作、川端康成、中村光夫、モバイルSEO
井上靖が前者に同調した。作者が弟の石原裕次郎から聞いた話が題材になっており、1956年に映画化され、裕次郎も脇役として出演、これが石原裕次郎のデビュー作となった。 SSL
大江健三郎 『死者の奢り・飼育』(第39回・1958年)109万部
「飼育」が受賞作。大江は前年度の第38回にも「死者の奢り」で候補となっていたが、このときには開高健「裸の王様」が受賞。開高の受賞時丹羽文雄は「技巧の点では大江のほうが上だが、オンラインゲーム
視野が狭くて落ちた。開高は作品に傷はあるけれども、故島木健作の持っていたシンの強さがあり、視野も広い」としている[18]。「飼育」は大江の故郷である四国の村を舞台に、子供である「僕」と村人に捕らえられた黒人兵との関係を描いた作品で、当時の大江はサルトルの影響を強く受けた作風であった。「飼育」は選考委員の間で評価の高さは一致したものの、前述の通りすでに大江が有名作家となっていたことが議論の的となり、為替
「今回は賞無しというのも少し淋しいかと思って」(瀧井孝作)というような意見から受賞が決定した。舟橋聖一は「死者の奢り」にこそ賞を出したかったという選評を行なっている。 住宅ローン 比較
柴田翔 『されどわれらが日々――』(第51回・1964年)186万部
東京大学の学生を主人公に、当時の学生運動を背景にして描かれた青春小説。血のメーデー事件による革命への気分の高揚、六全協での挫折が物語の主軸となっており、当時の若者に広く読まれた。選考では前述のように280枚の長さが問題となったが、「他の候補作品にくらべて力倆は抜群」(石川達三)、「読み出すとスラスラ読めるので、却って、落ちた作の五十枚前後のほうが、読むのに骨が折れた」(丹羽文雄)といった意見から受賞が決定した。柴田はその後ドイツ文学者として活躍している。
庄司薫 『赤頭巾ちゃん気をつけて』(第61回・1969年)160万部
安保闘争などの学生運動を背景に、日比谷高等学校の男子生徒の一日を軽妙な文体で描いた作品。庄司は本名の福田章二としてデビューし、9年の沈黙を経て本作を発表した。「さようなら怪傑黒頭巾」などに続く4部作の第1作にあたり、作風にはサリンジャーなどのアメリカ文学からの影響が指摘されている。田久保英夫「深い河」との同時受賞。選考では三島由紀夫、石川淳らから激賞を受けている。
村上龍 『限りなく透明に近いブルー』(第75回・1976年)354万部(単行本131万部、文庫223万部)
作者の実体験に基づき、米軍基地に近い町でドラッグとセックスに溺れる若者をLSD的な感覚で描いた作品。センセーショナルな内容が話題となり、歴代受賞作で最も売れた作品となった。選考では意見が真っ二つに分かれ、「因果なことに才能がある」と評した吉行淳之介のほか、丹羽文雄、中村光夫、井上靖が支持したが、永井龍男、瀧井孝作が強く反発。受賞後も江藤淳が酷評するなど論議を起こした。受賞作は村上自身の手により1979年に映画化されている。
池田満寿夫 『エーゲ海に捧ぐ』(第77回・1977年)126万部
三田誠広『僕って何』との同時受賞。池田はすでに版画家として国際的な評価を得ていたため受賞は大きな話題となった。作品は池田自身を思わせる主人公がアメリカの撮影スタジオで、日本の妻と国際電話で会話しながら目の前のアメリカ人女性のヌードを観察する、というエロティシズムを全面的に押し出したもの。1979年に池田自身により映画化されている。選考では中村光夫から高い評価を受けたが、永井龍男は「空虚な痴態」「これは文学ではない」と授賞に抗議し、この作品と上記の村上の受賞を理由に選考委員を辞任している。 綿矢りさ 『蹴りたい背中』(第130回・2003年)127万部(単行本のみ)
綿矢は16歳のときに『インストール』でデビュー、芥川賞受賞時は19歳で、20歳の金原ひとみと同時授賞し最年少記録を大幅に更新、単行本は『限りなく透明に近いブルー』以来28年ぶりのミリオンセラーとなった。受賞作は周囲に溶け込めない女子高生とアイドルおたくの男子生徒との交流を描いたもので、唯一反対した三浦哲郎を除く選考委員の票をすべて集め受賞が決定。「高校における異物排除のメカニズムを正確に書く技倆に感心した」(池澤夏樹)、「作者は作者の周辺に流行しているだろうコミック的観念遊びに足をとられず、小説のカタチで新しさを主張する愚にも陥らず、あくまで人間と人間関係を描こうとしている」(高樹のぶ子)と各選考委員から高評価を受けた。綿矢の受賞と前後してこの時期10代〜20代前半の作家のデビューが相次ぎ、若年層の活躍を印象付けた。
[編集] 太宰治の落選について
第1回芥川賞では、デビューしたばかりの太宰治も候補となった。太宰は当時パビナール中毒症に悩んでおり、薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった川端康成は、太宰について「作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる悩みがあった」と評していたが、これに対して太宰は強く憤り、『文藝通信』に「川端康成へ」と題する文章を掲載、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す、さうおもった。大悪党だと思った」と川端をなじった。これに対し川端も翌月の『文藝通信』で「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁した。また太宰は選考委員のなかで太宰の理解者であった佐藤春夫に何度も嘆願の手紙を送り、第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが、第3回以降しばらく「1度候補に挙がった者は以後候補としない」とする規定が設けられ、受賞の機会が奪われることとなった。佐藤はこれらの経緯を「小説 芥川賞」と題して詳しく描いている。
[編集] 受賞作一覧
[編集] 第1回から第10回
選考委員:川端康成、佐藤春夫、瀧井孝作、久米正雄(直木賞兼任、第3回・第5回欠席)、佐佐木茂索(直木賞兼任)、山本有三(第2回まで)、小島政二郎(第2回以降、直木賞兼任)、室生犀星(第2回以降、第5回欠席)、菊池寛(第3回のみ)、横光利一(第4回以降)、宇野浩二(第6回以降、第7、17-20回欠席)
第1回(1935年上半期) - 石川達三 「蒼氓」
第2回(1935年下半期) - 該当作品なし(二・二六事件のため審査中止)
第3回(1936年上半期) - 小田嶽夫 「城外」、鶴田知也 「コシャマイン記」
第4回(1936年下半期) - 石川淳 「普賢」、冨澤有爲男 「地中海」
第5回(1937年上半期) - 尾崎一雄 「暢気眼鏡」他
第6回(1937年下半期) - 火野葦平 「糞尿譚」
第7回(1938年上半期) - 中山義秀 「厚物咲」
第8回(1938年下半期) - 中里恒子 「乗合馬車」他
第9回(1939年上半期) - 半田義之 「鶏騒動」、長谷健 「あさくさの子供」
第10回(1939年下半期) - 寒川光太郎 「密獵者」
[編集] 第11回から第20回
選考委員:川端康成(第13回欠席)、佐藤春夫(第18回欠席)、瀧井孝作、久米正雄(第11回-第13回欠席、第16回まで)、佐佐木茂索(第11、15回欠席、第16回まで)、小島政二郎(第17回まで)、室生犀星(第17回まで)、横光利一(第11、12、14、17回欠席、第20回まで)、宇野浩二、片岡鉄兵(第13回以降、第14回-第16回欠席、第19回まで)、白井喬二(直木賞兼任、第13回のみ)、河上徹太郎(第17回以降)、岸田国士(第18回以降、第19回欠席)、火野葦平(第18回以降)